なぜ私は、「問い」の会社を沖縄につくったのか

目次

「正解」を教えるのはもうやめた。
元・中学校教師が沖縄で
【「問い」をもとに未来を切り拓く人たちのベースメント”秘密基地”として会社】を立ち上げるまで

「問いが、未来を動かす」
これが、私が沖縄の地で新たに立ち上げた会社
【「問い」の会社】Inquirers Base Okinawa(インクワイアラーズ・ベース・オキナワ)のタグラインです。

みなさん、こんにちは。安里三矢子です。

私はこれまで長年、沖縄県の公立中学校で教壇に立ち、子どもたちと日々向き合ってきました。
そんな私が、安定した教職員としてのキャリアを完全に手放してまで、なぜ「問い」を軸とした新しい会社を立ち上げたのか。

正直にお話しすると、私の中には常に「本当にこれでいいのだろうか?」という教育者としての迷いや葛藤があります。
子どもたちの前に立つたび、自分の無力さに打ちひしがれることも数え切れないほどありました。
でも、悩み、迷いながらも、目の前の子どもたちや教育の課題に真っ向から対峙し、泥臭く試行錯誤を続けること。
それこそが、私の教育者としてのスタンスです。

今日は、そんな私の終わらない試行錯誤の道のりと、外部の優れた知見や先輩方が築き上げた理念に支えられながらたどり着いた、ひとつの「決意」についてお話しさせてください。
この拙い文章が、これから正解のない道を共に歩んでくださる皆さまと繋がる、ささやかなきっかけとなれば幸いです。

第1章:世界を巡って深めた「問い」と、
教室で直面した大きな壁

私の教育への想いの原点は、渡名喜島出身の父と、与那国島出身の母にあります。
特別裕福というわけではない、ごく一般的な家庭でしたが、両親は「教育は身を助ける」と口にし、私たち兄弟に学ぶ機会を与え続けてくれました。
離島という環境ゆえに, 自分たちが望む教育を十分に受けられなかった両親の切実な思いがあったのだと思います。彼らが私に教えてくれたのは、与えられた環境をただ嘆くのではなく、
「なぜこうなるのか?」「どうすれば変えられるのか?」という純粋な「問い」を持つことでした。

その教えに背中を押されるように、私は「問い」の答えを探しに広い世界へと飛び出しました。
学部時代には、北アイルランドのアルスター大学へ留学し、紛争の歴史を背景に持つ地でジャーナリズムや地方自治・文化について深く学びました。
また、台湾の東海大学では1か月にわたる日本語教師のインターンシップに挑戦し、言葉を通して人と人が繋がる喜びに触れました。

さらに、教員となってからも私の探究心は止まりませんでした。
働きながら、オーストラリアのジェームズクック大学の修士課程で南洋諸島の自治について学び、さらには沖縄の米軍基地内にあるトロイ大学大学院に通い、国際関係学の修士課程を修了しました。

北アイルランド、台湾、オーストラリア、および基地内のアメリカ。
多様な価値観が交錯する環境で学び、世界の複雑さを肌で感じたからこそ、「教育が人の可能性を広げ、社会をより良くしていく」という確信は揺るぎないものになりました。

しかし、その無限の可能性を信じて意気揚々と中学校の英語教師になった私を待っていたのは、私自身の未熟さが招いた大きな壁でした。
当時の私は、自分が世界で見てきたことや持っている知識を、いかに効率よく生徒に「教え込む」かばかりを考えていました。
恥ずかしながら、私自身の「教える」ことばかりに重きを置いた指導観や一方的な授業スタイルが、結果として生徒たちを「させられる学習」に追いやり、彼らを主体的な学びに向かわせてあげることができていなかったのです。
私が熱心に正解を与えようとすればするほど、生徒たちは受け身になり、学びの熱が冷めていくのを感じました。

「世界を巡って学んできたはずなのに、目の前の子どもたちの心に火をつけることができない。私の何が間違っているのだろうか」。私は深く悩み抜きました。

第2章:教職大学院での理論との出会いと、
教員生活最後の地での試行錯誤

この現状を打破し、自分の指導観を根本から見直すため、私は琉球大学の教職大学院に進学しました。
そこでの私のテーマは、まさに「探究的な学び」について、理論と実践の往還に努めることでした。
大学院では、生徒が自ら目標を設定して社会に変革を起こしていく「生徒エージェンシー」や、教師も共に学び合う「共同エージェンシー」の重要性を学び、「これだ!」と深く納得しました。

しかし、学術的な理論をそのまま現場に持ち込んでも、子どもたちの心はすぐには動きません。

大学院での学びを経て現場に戻り、私の教員生活最後の赴任校となったのが浦西中学校です。
同僚たちと共に、どうすれば生徒の主体性を引き出せるのか、日々の授業や総合的な学習の時間のカリキュラムを通して必死に試行錯誤を繰り返しました。
その泥臭い葛藤の中で、学校全体で共有する合言葉として生み出されたのが、「みかこ」と「とんかつ」です。

生徒は自ら課題を「みつけ」「かんがえ」「こうどうする」=「みかこ」。
教師は教え込むのではなく、
生徒に「といかけ」「一緒にん〜っとかんがえ」「社会へつなぐ」=「とんかつ」。

これは私一人のアイデアではなく、悩みながら共に教育のあり方を模索した先生方全員で創り上げた、血の通った実践の指針でした。
私たちが「教える」ことを少し手放し、「問い」を投げかける伴走者に徹したとき、生徒たちは驚くほど目を輝かせ、私たちの想像をはるかに超える力を発揮し始めたのです。

第3章:学校の枠を超えて。人事異動がもたらした新たな視点と決断

生徒たちが自ら「問い」を持ち、社会の課題に立ち向かう「チェンジメーカー」として成長していく姿は、私に大きな希望を与えてくれました。しかし同時に、新たな悩みが私を覆うようになりました。

「この素晴らしいエネルギーを、学校という閉じた枠組みの中だけで終わらせてしまっていいのだろうか?」

子どもたちが社会で本当に「エージェンシー」を発揮するには、大人自身が「問い」を持ち、共に面白がる社会のエコシステムが必要です。
そんな新たな「問い」を抱え始めていた矢先、人事異動により、大好きな浦西中学校での現場教員としての生活に幕を下ろし、那覇市教育委員会で指導主事として働くことになりました。

自ら望んで現場に区切りをつけたわけではありませんでしたが、振り返れば、この教職員人生最後の仕事は私にとって大きな転機でした。
教育行政というマクロな視点から、地域社会や産業界、高等教育機関をつなぐ新しい教育の仕組みづくりなどに奔走する中で、「社会全体で子どもたちを育むエコシステムが必要だ」という思いは確信へと変わっていったのです。

それでも、私の試行錯誤は止まりませんでした。
「もっとシームレスに、もっと直接的に、大人と子どもが共に探究できる場を創りたい」。
その思いはどうしても抑えきれず、ついに私は公務員としてのキャリアを完全に退職する決断を下しました。
現在は、沖縄科学技術大学院大学(OIST)で教育コーディネーターとして最先端の研究と教育をつなぐ傍ら、【「問い」の会社】「Inquirers Base Okinawa」を立ち上げ、現在に至ります。

結び:「至逞(してい)」の精神を胸に、
共に未来を動かす

私の教員生活最後の地となった浦西中学校には、「至逞(してい)」という素晴らしい校訓があります。
これは「激しく変化する社会に主体的に関わり、たくましく生き抜く過程や姿」を意味しており、自立心、協働心、向上心という3つの心を基盤としています。

もちろん、これは私が考えた言葉ではありません。先輩方が長年大切に受け継いできた理念です。
しかし、教育者として悩み、壁にぶつかるたびに、この「至逞」という言葉が、まるで道標のように私を支え、鼓舞してくれました。

私がいま沖縄に創り上げた「Inquirers Base Okinawa」は、まさにこの「至逞」の姿を、学校だけでなく社会全体で体現していくためのプラットフォームです。
大人も子どもも関係なく、一人ひとりの「ワクワク」を中心におき、失敗を恐れずに「問い」を立て、共に新しい価値を生み出していく秘密基地。

「問いが、未来を動かす」。

この記事を書いた人

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